凌霄会について

凌 霄

 第二商業の専用校舎も、昭和20年3月の神戸大空襲によって灰燼に帰し、つづく8月の敗戦によって国民すべてが虚脱の状況にあったとき、本校の復校に立ち上がらせたものは本校の校風である自治・自主の気風であり、また本校の生徒・卒業生に伝えられていた凌霄の気風であった。すなわち、この校風のもと、本校職員、とくに賀須井校長、生徒難波・今鷹・長井の諸氏を中心に卒業生の協力を得て進駐軍・県当局に陳情に陳情、交渉に交渉を重ね、ついに20年10月、復校の許可があり、21年1月に第1学年生100名の募集をおこなった。さらに、昭和23年学校教育法が制定され、新制高校として出発するにあたって、学校名を校風にちなんで「凌霄」と改名した。

 この校名「凌霄」は昭和23年3月31日改名から、28年2月9日、現在の長田商業と改名されるまで、5年間親しまれ、仰がれてきたものである。この「凌霄」は創立当初の本校の校友会誌の題名であったので、すでに早くから本校生徒に親しまれていたものである。当時、第一商業には「凌波」と称する会があり、神戸商大(現神戸大学経済学部)には「凌霜」という会があったので、これに対応する意味を持っていたともいわれている。

 「凌」は「こたえる」・「わたる」・「しのぐ」・の意味、「霄」とは「空」のことで、「凌霄」とは「大空をしのぐ・屈服せぬ心・他をなして他の上に出る凌駕」の意味でもある。

 よく凌霄の表という語が使われるが、中国唐代の房玄齢の著した「普書」という普の歴史を書いた史書に初めて出てくる語である。

 燕の国の垂戴という人物を批評した文中に「垂戴はなほ鷹の如きなり、飢ゆればすなはち人に附き、飽きればすなはち高麗、風塵の会にあえば、必ず凌霄の志あり。」といって、垂戴が大空をしのぐ高尚の志があったことを賞めたたえた文である。

 また、凌霄の花といえば「のうぜんかづら」のことであり、夏の日に朝顔に似た赭黄五弁の花を開く、優美な葛科の花である。

 凌霄の精神が本校の校風として立派に育ち、その成果を挙げつつあった一端を過去の記録の中に拾ってみる。創立30周年記念誌、筒井台から長田までー旧教諭松尾武造氏の文中に「筒井台に入学して二宮町で一年過ごし、長田で卒業する者もできたが、落ち着いて勉学できるようになって、上級学校への進学者もどんどん出てくるようになり、ある年には神戸経済大学(現神戸大学経済学部)の入学式のとき、新入生総代と卒業生総代とが、ともに二商の卒業生であったと聞いて喜んだこともある」と。この「凌霄」の文字は同窓会名となって、その気風は脈々として続いている。